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電気新聞「時評」東北電力女川原子力発電所

平成23年11月18日
日本原子力技術協会最高顧問
石川 迪夫

女川原子力発電所は、原子炉3基、総出力約217万キロワットの、宮城県牡鹿半島の東側、太平洋に面する発電所である。

当然のことに、3月11日の東日本大震災の津波は、この女川発電所にも襲来した。幸い発電所の敷地が高く、また外部電源も健在であったから、福島第一発電所のような災害とは無縁であった。

とは言うものの、津波による被害は甚大で、2号機原子炉建屋付属棟地下3階は海水流入で水浸しとなり、1号機タービン建屋では漏電による火災が発生した。

発電所は発電停止後の約10時間、冷温停止に至るまでの間が忙しい。地震による停止に加えて、水浸しと火災だ。発電所員は大童で、引き続く余震と津波避難勧告が発令される中、対応に奮闘していた。

その忙しい最中、100名ほどの地元女川の人たちが発電所の門を叩いた。発電所に避難させて欲しいという。小雪混じりの氷雨が降る寒い夕刻に、老人子供の混じる地元の一行であった。

今回、女川の津波被害は凄まじい。住民の約1割、980名が死亡または行方不明。町役場は破壊され、道路は壊れ、避難指示すら伝わらなかった。

蒼惶と集会所に身を寄せた被災者の中から、原子力発電所こそ頼るべき避難場所との声があがり、揺れる山道を支え合いながら、正門に辿り着いたのだ。

9.11のテロ以降、原子力発電所の入構には、事前の手続きを必要とする。だがこの緊急事態に悠長なことは言っていられない。「人命最優先だ」との発電所長の断で、構内体育館に入った一行は、恐怖と寒さから開放されて人心地を取り戻したという。

以降6月6日まで、この体育館が被災者の住居となる。噂を伝え聞いて避難者は数を増し、最大360余名に至ったとか。

困ったのは食料で、震災直後とて備蓄がない。仙台本社からの輸送物資が届くまでの数日間、避難者には一日2食、発電所員は1食の定めで凌いだ。この定め、自己犠牲は尊い。崇高といえる。僕のように戦中戦後の食糧難に飢えて育った者には、身にしみる。

避難生活のなかでの意気上がる話は、妊娠中だった女性がヘリで仙台に運ばれ、元気な赤ちゃんを無事出産したニュースだった。だが、公共報道である皆様のNHKは、この女性の感謝や喜びは伝えず、避難生活に抱く不安だけを切り出して映像を作り、放映した。

発電所と外部との連絡手段は、本社との保安電話のみであった。携帯も衛星回線も混んで使えなかった。所員の多くは家族との連絡が取れなかった。急峻な牡鹿半島の道路は、地震で破壊寸断されて、通行不能だった。

幸い、工事用の重機械が発電所内に残されていた。これを借りて、発電所員は慣れぬ道路の復旧工事に挑んだ。苦闘5日、道が拓け、女川居住の所員と交代出来た。

女川に帰った発電所員を待っていたものは、8人の仲間の家族に不幸があった知らせだった。事故と苦闘する福島第一原子力発電所員に、IAEAが与えた賛辞「己を捨て、公共への献身的奉仕」は、女川も同じだ。

10月中旬、僕が訪問した女川発電所の地面は、まだ波打ったままで残っていた。建物は継ぎ目の所々が壊れていた。だが発電施設に一歩入ると、床は水面のように平らで、全ては整然としていた。

牡鹿半島は、全体が1メートルほど沈んだと言う。岩盤に固着させた原子炉施設はビクともしていなかった。耐震設計は十分にその責を果たした。だがそれは構造物や強度に対してだけで、津波については、これまで耐震問題として論じてこなかった。

人智の至らなさと、経験が教える改善点を、被災した発電所の佇まいは如実に示している。

以上