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電気新聞「時評」福島第一原子力発電所-計画避難

平成23年6月20日
日本原子力技術協会最高顧問
石川 迪夫

20ミリシーベルトが一躍有名となった。文部科学省が校庭の利用制限値を20ミリシーベルトと定めたことに、子供の健康を害すると小佐古内閣参与がして、涙の辞任をしたのが発端だ。涙で20ミリシーベルトは悪者となり、学童は校庭で遊べなくなった。

こと子供の健康となると、日本世論は神経質だ。保護一辺倒で逆らえない。広島、長崎は別として、我々は中国の大気核実験で、これ以上の放射線被ばくを経験済みなのだが、その記憶は風化させて、20ミリシーベルトの実体を見つめることなく、心配ばかりしているように見える。

先ず事実関係から。国際放射線防護委員会(ICRP)は、緊急時の公衆防護のための線量を20~100ミリシーベルト/年の範囲と、4年前に定めた。日本政府は、この勧告をまだ受け入れていないので、福島の状況を見たICRPは、勧告を再度政府に伝えて来た。この忠告に従って、政府は最低値の20ミリシーベルトを福島の警戒区域設定に採用したのだ。これがそもそもの出発点で、文科省が出した校庭使用制限はこの準用だ。

 ICRPの勧告線量には、大人と子供の区別がない。その是非については、医者でない僕は判断できない。だが、いやしくも国際的な学術論議の末に合意された勧告だ。確たる根拠のある結論であるに相違ない。20~100ミリシーベルト/年という勧告範囲の中では、健康に対する放射線影響は同じとICRPが判断していることは、断言できる。

 健康影響に差がないから、制限値は各国の事情で決めて良いと、幅を持たせたのだ。20を採ろうが100を選ぼうが、それは国の事情、裁量の範囲だ。日本政府は最低値を採用した。

その選択は、放射線影響に対する厳格な姿勢で、国民健康を配慮した決定と、概ね好意的に受け止められている。だが僕は、この決定を、ここまで厳しくやっていますとの責任逃れのパーフォーマンスと見る。さらに非常時への政治的配慮に欠けているから、落第点を付ける。

 具体的に示そう。いま計画避難で揺れる飯館村、3月15日の環境放射能測定値は40マイクロシーベルト/時以上もあったのに、避難命令はなかった。警戒区域に指定された4月22日は、放出放射能は沃素131(半減期約8日)の減衰による効果で、5マイクロシーベルト/時までに下がっていた。この状況で一年間(約9000時間)生活したとすると、村民の被曝線量は20ミリシーベルト/年を若干上回る計算となる。従って、飯館村は警戒区域であり、住民は計画避難の対象となる。

だが仮に、政府の選択が50ミリシーベルトであれば、飯館村の大部分は警戒区域でなくなる。避難の必要はないし、牛との辛い別れもない。100ミリシーベルトならば更なりで、疎開中の原子力避難者の多くが、自宅に戻れる。

僕は第二次世界大戦末期、学童集団疎開を強いられた。寝泊まりは寺の本堂、薄いお粥だけの食事、栄養失調の体はブヨに食われて膿瘡だらけ、辛かったから早く特攻で死にたいと願っていた。終戦の詔勅を聞いた途端、家へ帰れると小躍りして喜んだ。目の前が明るくなった。

避難とは、させられる身には、辛いものなのだ。ストレスによる健康影響は、放射線影響より大きい。これはチェルノブイリの教訓だ。前報でも書いたが、大気中への放射能はもう出尽くしている。環境汚染も減衰の一途だ。不自由な避難生活は止めるに限る。帰宅できない理由は、政府が20ミリシーベルトを選んだところにある。

提案だが、100ミリシーベルトまでの範囲で、希望者の帰宅を認めてはどうか。帰宅者の健康診断は原子力従事者並みに実施すればよい。家業に励んで貰って.生産品を買い上げればよい。これが住民に希望を与え、地域の活性化に繋がる道と思うのだが。

 

以上